Jawa
ヤワ

軽量オートバイJAWA 175の試作品を持つデザイナー、ジョージ・ウィリアム・パチェット(1901~1974年)、NTM

フランチシェク・ヤネチェク(František Janeček)(1878年~1941年)は、チェコのエンジニア、発明家、起業家であり、チェコのオートバイ産業の歴史における最重要人物の1人でした。彼は外国で専門的な経験を積むことで、工学修士号を取得しました。1908年に、彼は自身の工学実験室と機械工作室を開設しました。彼の会社であるF・ヤネチェク造兵(Zbrojovka Ing. F. Janeček)は、武器、特に手榴弾や機関銃の生産のおかげで繁栄しました。販売危機に陥って代わりとなる生産プログラムを探していたときに、1902年からドイツのケムニッツで生産されていたドイツブランドのワンダラー(Wanderer)のオートバイのライセンス生産を導入することに決めました。

F・ヤネチェク造兵廠は、1929年に新しいオートバイJAWA 500 OHVを発売しました。JAWAという名称は、ヤネチェクとワンダラーという名を合わせて作られました。彼はかなり早い時期に、高品質で比較安価なオートバイを製造し始めたので、大きな経済危機のときでさえ生産は増加し続けました。ヤネチェクは、イギリスのライバルでデザイナーのジョージ・ウィリアム・パチェット(主にスポーツマシンに尽力)をチェコ共和(後のチェコスロバキア)に招待しました。パチェットは、ほぼ完成された軽量レーシングバイクを持ってきました。彼は、世界大戦までチェコスロバキアに滞在しました。彼がやって来たことにより、フルスピードでオートバイ生産が開始されました。エンジンが小さい小型の軽量オートバイとして構想された、新しいマシンが開発されました。

このオートバイは、原型にちなんでJAWA 175ヴィリアーズと命名されました。1932年に、このオートバイの連続生産が始まりました。この廉価モデルは、「庶民価格で人気のオートバイ」というキャッチフレーズで販売されました。

JAWA 175のオートバイ、1932年 写真提供:NTM

経済危機とその結果として必要とされた支出削減の間に、ヤネチェクは自身の販売方針によって大成功を収め、JAWAの軽量バイクは瞬く間に売れました。JAWAブランドの製品のおかげで、1930年代には、チェコスロバキアでは新車オートバイの輸入と国内生産の比率が完全に逆転しました。ヤネチェックは、過去90年間JAWAブランドが様々な障害にもかかわらず機能してこられたほど、会社の基盤を堅実に築いたのです。

1934年にフランチシェク・ヤネチェクは、2気筒2ストロークエンジンと前輪駆動を装備した小型乗用車の生産も開始しました。その乗用車は、最初はドイツの自動車メーカーDKWのライセンスを受けて生産されていましたが、後にJAWAの自社製造となりました。新しいJAWA・マイナーは1937年に投入されました。

スポーツカーJAWA 750、1935年 写真提供:NTM

占領下でのオートバイの秘密開発

ヤネチェクには、自身の会社の有能な開発者とデザイナーから成る優秀なチームがありました。世界大戦の直前、彼らは通常の交通と特別なオートバイレースの両方に対応する新しいオートバイを準備していました。しかし、ドイツの占領と開戦は、迅速にそのような活動を終わらせ、JAWAのオートバイと自動車の連続生産は1940年に終了しました。それでも、民間車両の開発は密かに続けられました。新しいマシンの設計は既にヤネチェクによって承認されていましたが、彼は1941年に亡くなりました。

彼の同僚は、占領下の状態をものともせず、戦後の生産開始に向けてもの最新のオートバイの試作車(および数台の自動車の試作車)の開発、製造、試験に取り組みました。戦争中の秘密の開発に伴うリスクは、JAWAに多くの利益をもたらしました。ライバルがまだ戦争の損害を勘定していたとき、JAWAは該当カテゴリーに同等のものがないオートバイを完成させました。新しいJAWA 250は、1946年から全世界に順調に輸出され、チェコスロバキアのオートバイ産業における卓越した成功の基盤となりました。それは、チェコ史上最も重要なオートバイの1つです。

JAWA 写真提供:NTM

世界最大のオートバイ製造国、チェコスロバキア

世界大戦直後の年間、チェコスロバキアは外国のライバルの大半を抑えて、オートバイ生産の分野で優位に立っていました。チェコの産業は比較小さな戦争被害で済んだので、戦後すぐに民間生産を開始することができました。占領下での秘密の準備により、最新のマシンの連続生産を導入することが可能でした。世界は安価な輸送手段を求めていたので、魅力かつ高品質のオートバイは世界中でよく売れました。JAWAのマシンはオーストラリアで関心を呼び、アメリカに輸出され、西ドイツ警察さえもJAWAのオートバイを運転しました。残念ながら当時の中央管理経済は統制が厳しく、柔軟な環境で活気づく西側のライバルには太刀打ちできませんでした。それにもかかわらず、オートバイの生産台数は台を維持し、チェコスロバキアはもの間、世界最大のオートバイ製造国でした。

スポーツカーJAWA
750、1935年 写真提供:NTM

J

例示的な写真 写真提供:NTM

JAWAとオートバイ競技

F・ヤネチェック造兵廠は、チェコスロバキア最大のオートバイメーカーであっただけでなく、当初からオートバイ競技にも力を注いでいました。

JAWAのマシンは生産開始からわずか年後に、主要オートバイ分野すべてで、世界をリードするブランドの重要なライバルになりました。

JAWA 写真提供:NTM

アプリで展示ガイドをご覧いただけます。